移動祝祭日

カルチャー・旅行・試行錯誤

かまれて死んでもあなたが好きよ

 思索です。前回の若さについての文章(薔薇には薔薇のわけがあろうに - 移動祝祭日)が褒められて嬉しかったのでついかいちゃった。褒めてくれてありがとね、愛だよ。

 タイトルは吉本ばななの本「ジュージュー」の158Pから。今死んでも許すよって、かわいすぎる。さいきん彼女の本しか読んでいない。

 

 

 


 わたしはやっぱり人間だから、人間のことがいちばん面白い。なんで憎いのに、嫌えないの? どうして、めちゃくちゃで後もどりできないのに、そのままおいて来てしまうの。

 

 だってやばくないか? 捨てられても傷つけられても、ほんとうに愛しちゃったりするのなんてありふれてる。親でも友達でも恋人にでも当てはまる。わるく言えば呪いだし、もしくは祝福かもしれないけど、人間のなかに潜む、一体なにがそうさせるのか。

 


 あくる日もあくる日も地獄にいなくちゃいけないとして、自分を地獄に突き落とした原因が猫(わたしのねこは世界でいちばん可愛い)だったら、わたしはむしろ喜んで悪霊とだって仲よくしちゃう。でもそれが親友だったら、きらいになれなくても憎むだろう。人間だとやっぱりそこがゆずれない。
 裏切られたとかひとりぼっちになっちゃうなとか、自分だけババ引いちゃったなとか、どうしてもそれを考えてしまうだろう。ねこになら何されたって怒らないのに。

 

 魂があるとして、それがひとつのぼんやりと光る何かだったとして、ねことか赤ちゃんはその光をそのままにはだかで放りだしている。でもだんだん成形されて、形と輪郭がはっきりして、棘やまるみが誰かを削りとってしまったり、その人本人をずたずたにしてしまう。ぴったりくみ合って、きれいな花が咲くこともあるかも。そしてだんだん形を保てなくなって、自分と他人のさかいが曖昧になって、またにぶい何かになって流れていく。わたしのおばあちゃんが、わたしとねこを間違えてしまうみたいに、はだかのままで流されていく。
 生きていくことは流れていくことに近いよね。

 

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 生きているとき、人格を保っている大概の時間に、そのままの瞬きを見せてくれる人はほとんどいない。はだかで武器を持った人のまえに立つのはこわすぎる。でも意外と、わたしたちは、むきだしの、ありのままの、鮮やかなものをそこまで傷つけられないのだ。

 

 人と関わり、生活を繰り返したり、隣りでごはんを食べたりして、ひとりとひとりの間は少しずつ深くなる。そうやって深まったふたりのあいだに、きらきら光るものがある。思わずさらけだしちゃった弱いところ、ほっぺたが熱いところ、ポケットにありえないごみが入っててサイテーなところ。

 誠実なまなざしや、ものすごい才能だけじゃない、キモくて引いちゃうところも含めて、見ちゃったらさいご、好きにならざるえないもの。チェックメイトかけられちゃったような、光ってかわいいところはめちゃくちゃずるい。それがあるかぎり、関係がどんなにさいあくになっても、いつか許して、許した自分が知らんうちに救われてしまう。

 好きになるってものすごくイタいし、ついで言えばさいごには大体心も身体も痛くなるしかないのだ。

 

 好きになった記憶は大体キツい。好きだったっていうことは、今はもう好きではないことだし、好きなきもちが薄れていくことで、かつて魅力を放ったものにもう傷つけられなくなることだ。好きであったという、甘くて幸せな感触のために、もうとっくに死んでる関係を置いていってみないふりする。

 そのものへ向ける、残り香のような思いがあっても、あの熱烈さはもう戻ってこない。同じ水にはさわれないし、ずっと同じところには立っていられない。死んだ肉体が風化したり、腐食するのとおんなじ。

 

 

 草木ばっかり見てたり、蜜蜂の巣についてばっかり考えてて、人のことがほんとうにどうでもいい人は、人間のことになんかに傷つかない。人間のことを見つめて、見つめられているかぎりに(そう言えばまなざすことは神の愛だってなんかの授業でやりました)、人から祝福されることは避けられない。生き物の業ってやつかなあ。

 やっぱりどうしても、もうほんとうに何をしても、人間に生まれたからには人間として死ぬしかない。人間はそう簡単に人間を見捨てられないようにできている。だから誰からもまなざれない人はきっと生きていけない。

 

 

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 褒められるのと悪口は似ていて、言っている側はどのみち脇役に過ぎない。10年他人に文句言ってる人がいたら、その人は10年他人を主役にし続けている人だ。メチャクチャ叩かれてる人はそれだけ存在感がある。

 

 孤独は脳にとっての痛みに等しい。

 社会のなかにいることと個人であることは分かちがたく、円環のなかにいても、それを体の底からわかることは難しい。

 わたしなら、見えていないよりか、見つめて見つめられる方がマシだ。めんどくさくても、大変でも。そのなかで自分が好きになれたものをひたむきに大切にしていけばいい。自分を好きだと思ってくれる人に誠実でいるだけでいい。やっぱり愛がないと生きていけないのだから。

 

 

 

2018/07/18