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カルチャー・旅行・試行錯誤

道はいつでも決まっている

タイトルは吉本ばななの『キッチン』から。

道はいつでも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、繰り返す日々が自然と決めてしまうのだ。

 けっこう情緒多めの引越しにまつわる雑記。

 

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引っ越しをした。

結構前からダンボールに荷物をまとめていたにもかかわらず、あまりにも終わりが見えないから、もしかして一生終わらないかと思った。何せ引っ越し業者さんが家具を運び込んでくれている間もずっと荷物をダンボールに押し込んでいた。なんならほぼ徹夜でキッチン用品を片付けてたのに終わらないから、気持ちがおしまいになった。締め切りがギリギリすぎて三徹してる同人作家さんってこんな気持ちなのかなって思っちゃったもんね。

 

業者さんが午後四時に引き上げて行き、元の家から持ってきた(家に合わないために、のちに処分することになる)大きい家具と、40箱もあるダンボールに囲まれ、同居人と二人で途方に暮れてしまった。もしかして引越しって一生終わらないのではないか?(錯覚)

長野から母が手伝いに来てくれたけど、片付けても片付けても荷物が出てくるから、逆に楽しくなってきた。やることが多すぎて、もはやそういうゲームみたいに思えてくるあの感じ。

 

ダンボールの山の間で、ウーバーイーツで頼んだご飯を三人で囲んで食べた。お腹がぺこぺこで、ご飯はほかほかで、給食の時間をふと思い出した。もうあんな大人数の同じ年頃の人と、一同にご飯を食べることはないだろうな。

お風呂のガスを契約するのを忘れたから銭湯に行かなくちゃいけなくて、昭和からやってる文化遺産みたいなお風呂やさんへぞろ歩いた。お湯がありえないくらい熱くて、五分で体が芯まであったまり、秒速でお湯から上がった。常連のおばあちゃんが番頭さんと話している声が、脱衣室にまで丸聞こえで、なんだかニコニコしてしまった。うーん、地元感。

ドライヤーがおかまドライヤーしかないから、私は諦めてタオルドライしたけれど、母はアトラクションみたいに楽しんでいた。意外と乾いたそうだけど、大きくて見慣れないから、多分私が試す日はこないだろうな。

 

自分の服を一枚一枚ハンガーにかけながら、物の位置を一つ一つ定めながら、18歳の春の、上京のために越してきたことを思い出す。

私はまだ未成年で、東京に出てきたばかりで、一人暮らしで、自分がいかに親に守られていたかを一つも知らなかった。ご飯を炊くのも、洗濯機を回すのも初めてだった。柔軟剤と洗剤を分けていれることを知らなかった。実家が古すぎて、お風呂の乾燥をしたことがなかったから、カビがよく発生した。生活することに生じる全ての労務が煩わしく、うまくできない自分がやってられなかった。

今よりずっとばかだったので、生きていくこと、生活に負けない日々を送ることが生む、仕事の美しさをばかにしていた。

 

毎日料理している人、毎日自分で生活している人の家事の仕草や、仕事ぶりは、日々の埃をとり払い、人間をより長持ちさせてくれる。中国の茶器は使われることで艶を増して美しくなると聞いた、家の仕事をする人の美しさはそれに似ている。自分とだれかの快適についてよく考えていて、繰り返されることによって、より独自の進化を遂げる。

母にも、同居人にも、家事仕事をする人特有の光りがある。生活に負けない光。維持していく光。

 

18歳の私はあまりにも家事ができないことを理由の一つに同居人の家に転がり込み、自らの衣食住の快適を得た。それからおよそ三年半の半同棲を続け、22になってから、住居を同じくすることになった。

同居人は三年半にかけて、家事の一切を教えてくれた。私は三年半かけて基本的な家事をこなせるようになった。牛歩の歩みだ。懲りずに教えてくれる存在に感謝しきり。基礎的なことができるようになってようやく、生活を繰り返すことがいやじゃなくなった。生活することの本質が、少しだけ分かった。家事とはケアそのものなのだ。

 

東畑先生が、【大佛次郎論壇賞(第19回)】【紀伊國屋じんぶん大賞(2020)】を受賞した、『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』の文中には、ケアに属する労働は可視化されにくく、対価を低く見られがちで、うまく営まれている時ほど存在が透明化しやすいとある。先生はケア的労働についての例で、家事労働を一つ取り上げている。ケア的労働は、それが機能不全になった時に初めて、その重要性が現れる。これを読んだ家事労働担当者は全くその通りだとうなづくだろう。

ケアすることを前提に、暮らしは成り立っている。暮らしは、ケアされなければ決して適切にも、快適にもならないのだ。そして私は18年以上、ケアだけをしてもらい続けていて、最近になってようやく、だれかをケアできるようになった。少しだけだけど。

 

それぞれの家を引き上げ、一つの家で暮らすために、家具を品定めしたり、収納道具を吟味して、私の人生史上最も美しい、暮らしやすい部屋が完成した。

その部屋で数日過ごして見て、過ごしやすい部屋は、「暮らしに適切」というだけで人間という生き物をケアすることが分かった。住み心地のいい空間は、ただ在るだけで生き物を守ることができる。ケアを維持しにくい環境に暮らし続けると、人間は「居る」ことが難しくなっていく。存在して居るだけのことが、難しいことすらあるのだ。人間は、ケアされなければ生きていけない。

18の一人暮らしの私の家、あるいは何十年も前に建てたから、住居の導線がめちゃくちゃになっている実家に暮らしていたから、私にはそのことがよくわかる。何にもできない夜に、ボタン一つでお湯が飲めることは、存在の維持を助ける。

 

母は、引越して三日目の朝に帰っていった。本当はもう一日手伝えるけど、一週間分の買い出しをしなきゃいけないから、もう帰らなきゃと言っていた。私は結構さみしくて、もう一日いなよと何回か言ったけど、母は帰って行った。母と父にケアされ続けて生きてきた私は、大人はだれにケアされるのだろうと考える。東畑先生は著作の中で、子供のような、個人を絶対的に必要とする存在が、居るだけでケアになることがあると言っていたけれど、私はもう22で、もっと他のケアの方法ができるはずなんだ。

 

書類の関係で帰省した際に、お母さんと一緒に買い物をした。お父さんとテレビを見ながら雑談し、冗談を言って笑い、音楽を聴いて、何か買うときには相談をする。お父さんの大量の本の整理を手伝って、料理を作って東京に戻った。一緒に過ごすこと、一人にさせないこと、手伝うこと、だれかのために何かをすること。多分きっと、これもケアだ。

 

家事に限らず、仕事をする人は、ケアをする人の光を持っている。繰り返すことで磨かれ続ける、まるい光を。

依然として味付けが濃くなりすぎてしまう私の手にも、いつかケアの光は宿るだろうか。

 

 

紹介図書:良書なのでぜひみんな読んでくれ

東畑開人『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』(医学書院、2019年2月)

定価:2,200円 

http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=106574