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オタクはなぜ業が深いのか?

 

 

 

 オタクは業が深いらしい。

 今はそこまで聞かなくなったような気もするが、去年とか死ぬほど業が深いっていうワードをあちこちのオタクが乱用していたように思う。

 まあ実際、オタクは業が深いという言葉が大好き。

 

 東に不遇な過去の推しがいれば業が深いと言い、西に複雑な境遇にある推しを見つけては業が深いといい、南にやりきれない関係性を持つ推しを知っては業が深いと言い、北に結ばれない恋に落ちる推しがあれば業が深いと言っている。

 推しの業が深ければ、その推しを好きなオタクの業も深く、もう人界は鬼だらけだ。

 

 まあ色々言ってみたけど、頻繁に使われてる業って何よ? オタクは何が業深いんだ?ということを考えたメモブログです。うまくまとまらなかったんですが、オタクとして10年生きてきたこと(キツすぎる)に気づいちゃったので、ちょうどいい機会かなと思って書いてみました。

 多分一番業深いのはわたしです。

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 ⑴業とは?

 そもそも業って何よって話です。(全然関係ないけど、業ってBingで調べたらゆうちょの株価出てきた、なんでだ)辞書的な意味を三つ出すと、

 仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。

 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「業が深い」「業をさらす」「業を滅する」

理性よって制御できない心の働き。

 だそうです。(ありがとうコトバンクさん、押しを向けて眠れません:https://kotobank.jp/word/%E6%A5%AD-61354

 

 今回のテーマに即してまとめると、仕草や言葉や心持ちがよかったり、悪かったりすることという意味で、もっというと行為が罪深いことって意味かなと思います。

 そしてその罪深い行為が原因となって、結果に影響を与えるって感じかなあ。

 

 つまり、業っていうのは悪い・罪深い結果を生み出す原因であるとここでは定義します。各位からメチャクチャ叩かれそうだけど、つまり俺の推しの業が深いってことは、俺の推しの罪が深いって意味になるんですよね。

 

 

⑵俺の推しがわるいわけない!

 いやあ、でも、自分の推しが何をしたんだ!って思いませんか? 勝てない才能を前にしたって、100回でも100万回でも土俵に立ち続ける、そんな推し(手嶋さん)が何をしたんだよ! 愛してるゆえに走るしかない推し(手嶋さん)の業が大好き! サイコー! 推せる! 今日も推し(手嶋さん)の業が深い!

 

 今、「キモ……とか「キッツ……って思った(正気の)人がいたら、ここから先はもっと気持ち悪いのでみないことをお勧めします。本当にやめておいたほうがいいです。マジで押しを推してるときのオタク(わたし)はヤバいので。

 

 よくよくよくよくよく前文(推し(手嶋さん)の業が大好き!)見てみると、これ別に推しが本当に罪深いかどうかなんてわかんないと思いませんか?

 

 例えばですが、わたしは、弱虫ペダルの手嶋さんの業は、

  好きなのに才能がない、才能がないこともわかっている

  →だから努力するしかない

  →努力しても天才には勝てない

  →勝てないからって勝利を諦めない、諦められない

  →なぜなら走ることが好きだから(苦しくても辛くても、負けても勝っても辞められないくらいロードバイクを愛してるから)

 という構図かなと思っています。(今更だけど、これは一ファンの意見だから、違うなと思った人は無視しちゃってね)

 

 そういう彼のひたむきなところと熱いところがメチャクチャメチャクチャ好きなわけですが、私の場合はとくに好きだから、どんなに苦しくても辞められないってところがバクモエのポイントなわけです。

 マジでキモオタクなのを全インターネットの海に晒しちゃったな

 

 はじめに戻りますが、手嶋さんがロードバイクをひたむきに好きなことが罪深いわけありません。そう、やっぱり推しが悪いわけないんだよね。

  じゃあ誰が悪いのか? 誰が罪深いのか?

  もちろんオタク(この場合は私)です!

 

 

⑶オタクはやっぱり業が深い

  推しの〇〇なところが本当に推せる、本当に良い、苦しいくらいバクモエする、このバクモエの原因はやっぱり推しにある=推しの業が深い!

 

 まあもちろんなそんなことはないわけです。先ほども言及しましたが、推しが〇〇なことをいいとか悪いとか萌えるとか好きとか色々言ってんのはオタクサイドなわけです。

  仏教でも何が業ふかいか定義されていますよね。欲を持つこともその一つ。業という単語も、初めは行為だけをさしていたのに、それが善悪の意味も持つようになったのは、修行者が女性を見てあらぬことを考えるから、女性自体を罪深いものとすることで、女性から抜け出そうとするところから始まったそうです。

 

 当然ですが、この場合、あらぬこと考えているほうが悪いことになるわけです。そういう風に見えるほうが業が悪いなと思いませんか?

 

 つまりオタクも、推しに対してあることないこと考えているわけですから、業が深いのはオタクの方なわけですね。しかも、推し・作品が、バクモエのポイントを持っていたら、条件反射的に萌えてしまう。萌えれば萌えるほど推しに何くれとなく貢ぎ、あれこれ解釈して、なんならそれを本にもしてしまう。(同人誌はサイコー)

 

 業が深いと感じて、業の深さに萌えてるオタクは、業を感じているオタク(わたし、もしくはあなた)に罪があることになる。でも、萌えは業だとして、業はわるいことなんだろうか? 善悪ってなんなんだ?

 

 

⑷わたしはスキを諦めない

 じゃあ、オタクは罪なのか?と問われれば、そんなことはないと思いますし、何かに萌えること・好きになることは罪どころかすごくいいことだと思います。

  業についてもそうですが、日常生活において、そういう風に見えるのは自分なのだと思います。電車でセクシーな誰かが自分を誘っていると思ったら、それは自分が、その人は自分を誘っているんじゃないかと感じただけに過ぎない。ある本のデザインがいいなと思ったら、それは自分がそう思っただけで、ほかの人は違うかもしれない。

 自分が見えている世界は、あくまで自分が見たくてそう見ているんだと思うんですよね。

 

 例えば解釈違いにおいても、Aが優しくみえる人がいれば、最低にみえる人もいるわけです。答えは自分の中にしかないわけだから、ほかの人を攻撃する必要はないし、逆に攻撃されるいわれもないわけです。

  オタクだけにかぎって書いてきましたが、ヤバいことやキモいことのラインは人によって違います。何が好きかも全然違う。何が罪で、何が罰なのかは、日常生活においては自分の感性が決めているわけです。ある人が業深いといったらその人にはそうなわけだし、ある人が可愛いと思ったら、その人にはそう見えているというだけ。

 

 だから、業もいかほどにでも深くていいし、自分が感じたことを曲げなくていい。そう思う人がそこにいるだけで、善悪の問題じゃない。善悪なんて、個人の問題においては自分で決めているんだと思います。

 

 たぶんオタクは業深い。でも業深いのは全人類みんなそうで、罪深かろうがなんだろうがきっと別に問題ないのだ。アニオタだろうと、ジャニオタだろうと自分の好きをまっすぐ信じたらいいことに変わりはない。

  ユリ熊嵐というアニメに、「わたしはスキを諦めない」というフレーズが繰り返し出てきますが、まさしくそうだと思います。スキに夢中になったもん勝ちだなって思う。自分の根幹を支える「スキ」、自分の輪郭を作っていく「スキ」は絶対捨てないでね。「スキ」を信じていこうよね。